かなり前の話。5月中旬頃、東京・杉並に鎮座する井草八幡宮でお参りした。JR西荻窪駅から20分くらい歩いたかな。
青梅街道沿い、早稲田通り沿いにある。都内でも有数の広大な社叢を誇る。この地域一帯は遅野井とも称され、明治期までは遅野井八幡宮とも呼ばれていた。源頼朝が起請(文治5年)して霊験を得、手植し奉献したと伝えられる老松「天然記念物-井草八幡の松」(高さ約40m)があったが、1973年(昭和48年)に枯れてしまった。現在その樹根の一部が当社回廊に飾られている。 アニメ 〈物語〉シリーズにて作中の北白蛇神社のモデルにもなった。縄文期から人々が生活していた此の地に神が祀られ、神社としての形態をととのえたのは平安時代末期といわれている。当初は春日神を祀っており、源頼朝が奥州討伐の折、八幡神を合祀して戦勝を祈願して以来八幡宮を合祀し、後年春日社を末社として奉斎するようになった。文明9年には太田道灌が石神井城の豊島氏を攻むるに当たり、戦勝祈願をしたと云い伝えられている。江戸幕府三代将軍の徳川家光は、寺社奉行井上正利をして社殿を造営し、 慶安2年に朱印領六石を寄進している。以降幕末まで歴代将軍から朱印地の寄進があった。その頃、氏子崇敬者により、石燈篭、石鳥居、狛犬、手水盤などが奉献された。明治以降も氏子崇敬者によって社殿の改修や増築が繰り返され、同時に植林も行われた。八幡大神(応神天皇)。(Wikipedia)。
◆
広大な敷地に、スケールも大きく圧倒されるようなお社であった。
拝殿
拝殿の両側には立派な回廊(?)があったが、残念ながら全体像を撮る事は出来なかった。片側ずつ。。
狛犬さん 和み系だ。
拝殿前には立派な門があり、なんとも厳かな空間であった。この広くて、白い砂利が敷き詰められていた神々しい空間に、参拝客はわたくし一人だけ。幸せであった。
◆
その後、敷地内を歩いてみた。
境内社
楼門 ここだけ見ると大宮の氷川神社のようだ。
歩いているとあちこちに鳥居があり、写真をチェックしても、どれがどれだかわからなくなってしまった。広過ぎ。
どこまでも続くかのような参道。
最後に辿り着いたのがこちら。本来、こちらから入るのが正解かも。このパターンは、本当に多いな。
青梅街道沿い、早稲田通り沿いにある。都内でも有数の広大な社叢を誇る。この地域一帯は遅野井とも称され、明治期までは遅野井八幡宮とも呼ばれていた。源頼朝が起請(文治5年)して霊験を得、手植し奉献したと伝えられる老松「天然記念物-井草八幡の松」(高さ約40m)があったが、1973年(昭和48年)に枯れてしまった。現在その樹根の一部が当社回廊に飾られている。 アニメ 〈物語〉シリーズにて作中の北白蛇神社のモデルにもなった。縄文期から人々が生活していた此の地に神が祀られ、神社としての形態をととのえたのは平安時代末期といわれている。当初は春日神を祀っており、源頼朝が奥州討伐の折、八幡神を合祀して戦勝を祈願して以来八幡宮を合祀し、後年春日社を末社として奉斎するようになった。文明9年には太田道灌が石神井城の豊島氏を攻むるに当たり、戦勝祈願をしたと云い伝えられている。江戸幕府三代将軍の徳川家光は、寺社奉行井上正利をして社殿を造営し、 慶安2年に朱印領六石を寄進している。以降幕末まで歴代将軍から朱印地の寄進があった。その頃、氏子崇敬者により、石燈篭、石鳥居、狛犬、手水盤などが奉献された。明治以降も氏子崇敬者によって社殿の改修や増築が繰り返され、同時に植林も行われた。八幡大神(応神天皇)。(Wikipedia)。
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広大な敷地に、スケールも大きく圧倒されるようなお社であった。
拝殿
拝殿の両側には立派な回廊(?)があったが、残念ながら全体像を撮る事は出来なかった。片側ずつ。。
狛犬さん 和み系だ。
拝殿前には立派な門があり、なんとも厳かな空間であった。この広くて、白い砂利が敷き詰められていた神々しい空間に、参拝客はわたくし一人だけ。幸せであった。
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その後、敷地内を歩いてみた。
境内社
楼門 ここだけ見ると大宮の氷川神社のようだ。
歩いているとあちこちに鳥居があり、写真をチェックしても、どれがどれだかわからなくなってしまった。広過ぎ。
どこまでも続くかのような参道。
最後に辿り着いたのがこちら。本来、こちらから入るのが正解かも。このパターンは、本当に多いな。
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