群馬旅2/3の続き。群馬2日目。せっかく桐生に来たので、近隣でどこかへ行こうかなと探し、桐生発8:25吹上行おりひめバスに乗って宝徳寺へ行ってみた。
宝徳寺は臨済宗大本山建長寺第73世仏印大光禅師を開山として、桐生地域の領主であった、桐生佐野正綱公の開基により室町時代の宝徳年間(1450年頃)に創建された禅寺です。当山の場所は桐生城(柄杓山城)の裏側に位置し、名久木の砦の入口を見渡す所にあります。これは城の裏口を護るための要害としてこの場所を選び建てられました。天正元年に桐生佐野家が太田の由良家に滅ぼされると、当山は保護者を失い荒廃してしまいました。しかし地域の人々の力により、再び隆盛となり江戸中期には当山17世の天渓和尚が大本山建長寺186代管長を務めました。また明治初年には大間々第一分校(旧川内北小学校)が当山において開校されました。公式サイト
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約30分で到着。ALFEEさんの歌詞のような言葉で迎えられた。
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旅先で早起きをしてバスに30分揺られ、静かなお寺の庭を散策すると言う、なんとも贅沢な朝時間を過ごすことが出来た。
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宝徳寺発桐生行9:45のバスに乗り、桐生駅には10:07に到着した。桐生天満宮を目指して歩く。途中、コンサート会場の名称になっていた美喜仁の前を通る。
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10数分歩いて桐生天満宮へ到着、お参りした。
桐生天満宮の御祭神・菅原道真公は、平安時代の優れた学者・文化人・政治家で、一般に「天神さま」と称されて、広く崇敬されてまいりました。
当宮の起源は、第十二代の景行天皇の時代に、上毛野国造が天穂日命を奉斎した磯部明神であり、その後幾多の星霜を経て、文治三 (1187)年から当地を支配した桐生家が代々の守護神として崇敬し、観応年間(1350年頃)には、京都より北野天満宮の御分霊を合祀して「桐生天満宮」と改称し、桐生領五十四ケ村の総鎮守と定められました。
天正九(1581)年に徳川家康公が東征の折りには、徳川家代々の祈願所として朱印地を賜わり、天正十九(1591)年には、桐生新町の宿頭として整備され、境内地や社殿は壮大なものとなりました。慶長五(1600)年の関ケ原合戦には、軍旗に用いる旗絹を当宮の御神前に供えて戦勝祈願し、その勝利凱旋を吉例として境内には織物市が開設され、後の桐生織物繁栄の礎となりました。
社殿は安永七(1778)年に起工して寛政五(1793)年に落成したもので、「岩の上の天神」と称されるように、本殿・幣殿は岩の上に建ち、社殿すべてが当時の建築装飾技術の粋を集めた建造物として、群馬県指定の重要文化財となっております(公式サイト)。
御祭神と御神徳:当宮は、菅原道真公をはじめ、公の御先祖である天穂日命を奉斎しております。
天穂日命 (アメノホヒノミコト)景行天皇の時代に、当地で有力な土師部の遠祖にして、菅原道真公の御祖先にも当たる御祭神で、当初は、天満宮の起源となる磯部明神の主祭神として奉斎されましたが、後に天満宮遷座の折に菅原道真公とともに、天満宮の御祭神となりました。古来、産業開発の守護神として崇敬されております。公式サイト
落ち着いた静かな空間に癒されたー。桐生の町中は、本当に歩いている人がいなかった。歩行者用の信号が必要ないのでは?と思うほど。車はそこそこ走っているので、車でしか行動しないんだろうな。
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11時、川野屋さんで桐生名物だと言う「ひもかわうどん」の昼食をとる。町中の定食屋さんみたいな雰囲気。
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