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伊勢・愛知旅2/3

 伊勢・愛知旅1/3からの続き。


内宮からバスに乗って、二見興玉神社を目指す。

「二見興玉神社

御祭神は興玉大神おきたまのおおかみ 御名 猿田彦大神さるたひこのおおかみ。相殿 宇迦乃御魂大神。二見浦の名称は皇大神御神幸の途次二見浦に着船せられたとき、倭姫命の御尋ねに大若子命より『速雨二見の国』と御答へしたに初まり、天下の絶勝宇内の霊域として、その名は夙に四方に喧伝せられ、立石(夫婦岩)の前に額づくもの目に相踵ぎ、殊に春秋の佳期には殷盛を極めるものであります。冒頭に述べるように第十一代垂仁天皇の御代、皇女倭姫命が皇大神である天照皇大御神を奉戴され、この二見浦に御舟を停められた時、興玉大神が海上の厳島(興玉神石)に出まされ、御神幸を守護し奉り、五十鈴の川上に大宮地を定められました。そして、未来永劫、皇大神宮大宮地の守護神として鎮まられ、内宮御垣内に興玉神が奉斎されるに至るのです。尊い御神徳を現わされた興玉神は、皇大神宮大宮地の守護神として尊崇され、厳島は興玉神石と尊称し、立石崎の立石(夫婦岩)に注連縄を張り結界とし、その前に遥拝所を設けて礼拝したのが当社の創始となります。その後、僧行基が此の地に来りて、興玉神の本地垂迹なりと称して観世音菩薩を本尊となして江寺を創建し興玉社を鎮守の神として同寺の境内に社殿を設け、仏者の手において祭祀が執り行われました。しかし、明治9年に神仏分離により立石(夫婦岩)前に御造営御鎮座されました。当時、境内には天の岩屋の内に祭祀せられた三宮神社(三狐神社)が鎮座されており、興玉社と三宮神社が合祀され、明治43年に二見興玉神社と改められました。以下全て公式サイト」


バスに揺られ30分くらいで到着。



「夫婦岩
岩は高さ9m、周囲は44mで古生層の最下部である輝光石と緑泥片石からなり、小岩は高さ4m、周囲10mで方解石からなり、大注連縄の長さは35mあります。夫婦岩の中央からさし昇る朝日は6月の夏至を中心に5・6・7の3ヶ月間拝されます。猿田彦大神ゆかりの霊石である「興玉神石」と、岩の間から昇る「日の大神」を拝する鳥居の役割を果しており、日の出の遥拝所でもあります。大岩・小岩を結ぶ大注連縄は「結界の縄」と称され、夫婦岩の向こうを海の彼方から常世神が寄りつく聖なる場所とされてまいりました。大岩は男岩・立岩(たていわ)、小岩は女岩・根尻岩ともいわれ、両岩が「夫婦岩」と呼ばれるようになったのは明治以降のことであり、それまでは総称して「立石」、親しみを込めて「立石さん」と呼ばれてまいりました。当地が古くより立石崎と呼ばれてきたことに由来しております。その立石を神門とし、興玉神石の遥拝所を設けたのが当社の信仰の始まりであります。天候が良い明け方には夫婦岩の間から富士山を拝する事もできます。」


この有名な夫婦岩を拝む。もっと遠くに見えるかと勝手に思っていたが、かなり間近に存在する。











「二見蛙について
境内に多く見受けられる蛙の奉献は、元来この地が御日の神の拝所であり、皇大神を御日の神と崇めたる時代に在りて、祝詞式に、所謂、谷蟆々の狭渡る極みなどあり、日の神に谷蟆々(蛙)を献じたるものなりと伝えられ、又、御神石である興玉神石を伊勢の海の守護の澳魂とあがめ、龍神崇拝の精神を一つにして、龍神は雨を喜ぶと云う意味から蛙を献ずるのであるといわれ、社伝には神宮参拝者が、旅の安全、航海の安穏を祈念して無事「かえる」の願からでたものとも云い伝えられています。当地は不浄汚穢を禊祓う霊場であるところから、蛙を戴いて小児の痒、腫物その他病痛の邪気を祓って必ず快癒といわれ、信奉されてきました。現在におきましても、御参拝の皆様は無事かえる・貸したものがかえる・若かえるなどの縁起により御利益をいただいております。」




龍宮さんも鎮座。








わたくしの部屋に掛けている神々の社カレンダー5月がこれであった。



実物を拝む事が出来て嬉しい。


近鉄で名古屋に戻る。ホテルにチェックインした後、夕食へ。「鳥銀本店」で名古屋コーチンを堪能した。大満足。





ホテルを撮影するのを忘れたが、宿泊したのは名古屋クラウンホテル。天然温泉の大浴場があって、心底寛げた。大浴場は良い。1時過ぎ迄喋り倒した😆1日目終了。目一杯動いて、25000歩歩いた。

2日目は6時起床で出発。名古屋と言えば喫茶店モーニング。純喫茶みたいな所で朝食。インベーダーゲーム付きテーブルだ。小倉トースト(別注)とカフェオレ。


カフェオレとセットになってたトースト。


シンプルでゆったりとした朝食時間でした。


10分くらい歩いて大須観音でお参りした。

「大須観音(おおすかんのん)は、愛知県名古屋市中区大須にある真言宗智山派の別格本山の寺院。山号は北野山。本尊は聖観音。寺号は北野山真福寺宝生院である。宗教法人としての公称は「宝生院」(ほうしょういん)だが、一般には「大須観音」の名で知られる。日本三大観音の1つともいわれる観音霊場。なごや七福神の一である布袋像を安置する。寺内に、『古事記』の最古写本をはじめとする貴重書を多数蔵する「真福寺文庫」がある。wikipedia」






この辺りは8年前に住んでいた時に、毎日のように散策していた所だが、大須観音でお参りしたのは初めてであった。塗り替えたのか、とても綺麗になっていた。近隣の商店街(朝早過ぎてまだ開店前であった)を通り抜けた後、三輪神社でお参りした。



「三輪神社
元亀年間(1570~1572)奈良桜井三輪町から小林城(現在の矢場町交差点辺り)に移った牧若狭守長清が深く崇敬する生まれ故郷大和三輪山に大物主神(大国主神・大黒様)を鎮め祭ったと伝えられています。御祭神は大物主神、徳川義宜公。本殿は切妻造り。

八の字にくぐって三倍のご利益がある『三輪鳥居』
鳥居は三輪鳥居あるいは三ツ鳥居と呼ばれ明神鳥居(笠木と島木の両端がそりあがり曲線になっている)の両脇に鳥居を持つ珍しい作りとなっています。三輪鳥居の正式な通り方で通れば御利益は3倍です。公式サイト」

8年前は神社巡りに興味が無かったので、この神社も初めて。三輪鳥居をくぐるとは、知らなかったな。





可愛い手水舎






繫華街にて、静かに佇む。



「末社    幸宮社(秋葉社・天王社・猿田彦社を合祀)、白龍社、福光稲荷社。」






本殿


更に10分くらい歩いて、若宮八幡社でお参りした。


「若宮八幡社(名古屋総鎮守)

社伝によると、文武天皇の時代に那古野庄今市場に創建されたと伝えられております。901年~923年(延喜年間)に再興し1532年(天文元年)3月11日織田信秀が那古野城を攻めた際焼失しましたが、1539年(天文8年)に再建されました。その後、秀吉公より社領二百石の寄進を受け、1610年(慶長15年)家康公が名古屋城築城に際し現在の地に遷座し、武神の神・外敵防護・領内鎮護の神として、武将の厚い信仰を受け、尾張藩二代藩主徳川光友は1664年(寛文4年)に社殿をはじめその他の造営を行い、社僧を廃し例祭の興隆に努め、その後代々の藩主の崇敬篤く、1689年(元禄2年)正月神領百石が寄進され、営繕は明治維新まで藩主により行われました。1877年(明治10年)3月14日県社に昇格し、1945年(昭和20年)3月19日空襲により焼失しましたが、氏子崇敬者の熱意により1957年(昭和32年)復旧造営しました。1971年(昭和46年)7月1日別表神社に列しました。5月に行われる例祭は、一般には若宮まつりと呼ばれ名古屋の三大祭りの一つとして有名で、三百年の歴史があり、16日の本祭りには神輿と山車が那古野神社を御旅所として、ご神幸が盛大に執り行われます。御祭神は仁徳天皇、応神天皇、武内宿禰命。公式サイト」






黒を基調とした厳かな佇まい。




今回、唯一引いたおみくじ。三輪神社で引いた。「大吉」!


伊勢・愛知旅3/3へ続く


#伊勢神宮

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